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2020/06/04 11:55

12月17日に発売となった文芸批評家・福嶋亮大さんの最新刊『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』(PLANETS)。『ウルトラQ』から『80』までの昭和ウルトラマンシリーズを、戦後サブカルチャーの歴史や、映像文化史においてどのように位置づけることができるのか論じていただいた1冊です。特撮ファンの方、映画ファンの方、そして作品を観たことがない方にも、ぜひ読んでいただきたいと思います。


テレビとサブカルチャーの批評基準

 一九五〇年代までの日本映画の巨匠たちが世界に冠たる立派な「父」であったとすれば、一九六〇年代後半のウルトラマンシリーズはそれとは別の新たな映像スタイルと消費者を生み出した「息子たち」の作品である。当時の関係者の回顧を読むと、偉大な「オヤジ」である円谷英二の監修の下で、一九三八年生まれの金城哲夫を筆頭とする三〇年代生まれの若い才能が、さまざまなアイディアを手探りで具体化していったことが伝わってくる。
 むろん、青春期が常にそうであるように、ウルトラマンシリーズにも明らかに未熟さや幼稚さ、ご都合主義が見られる。シリーズの基本設定を考えたのは金城だが、現場では常に複数の監督や脚本家、美術家が関わり、一人の作家がシリーズを全面的に統括したわけではないことも、この「甘さ」の一因になっただろう(一般的に言って、集団の創作物である映画やテレビドラマは近代的な「作家主義」の枠組みでは理解しきれないが、ウルトラマンシリーズもその例に漏れない)。それゆえ、芸術的な完成度の高さや傷のなさを尺度にすると、作品の評価はかなり厳しいものになってしまう。
 そもそも、怪獣や宇宙人の登場する特撮は悪趣味なゲテモノと見なされることが多い。それでも、本多猪四郎監督・円谷英二特技監督の『ゴジラ』や『モスラ』が奥深いテーマを扱った怪獣映画として、幅広い層から高く評価されてきたのに対して、ウルトラマンシリーズは「大人」の文学者や批評家にとってまともに取り合うべき対象とはなかなか見なされてこなかった。金城哲夫と世代の近い小松左京や大江健三郎のように、当時ウルトラマンを批判的に取り上げた文学者もいたが、それは少数派に属するだろう。
 ただ、ここでの大きな問題は、作品の精密さという尺度が、特撮テレビ番組を評するのにふさわしいかということである。私自身、ウルトラマンシリーズが完璧で隙のない作品だとは思わないが、その不完全さがかえってこのシリーズの不思議な美点になり得たことも確かだと考えている。たとえ多くの傷があったとしても、その弱点がひとたび受け手との共犯関係の絆に変われば、作品にはかけがえのない価値が生じることもあるーー、これは日本のサブカルチャーでは別段珍しい現象ではない。
アニメや特撮は基本的に「駄目」なものだが、そのことが作品への愛を損なうことにもならないというのは、古い世代のオタクにしばしば見られる心理であった*10。
 このいささか奇妙な寛大さは、アニメや特撮の主要媒体となったテレビの特性とも恐らく関係しているだろう。ウルトラマンシリーズは長い話数をかけて主人公の成長物語を書く代わりに、一話完結のテレビドラマというフォーマットを守り続けた。ときに例外もあるとはいえ、巨人と怪獣の闘いは12基本的には一話限りであり、翌週には今週の出来事など何もなかったかのように再び新たな怪獣が出現する、ここにはいわば強力な「慣性」が働いているため、明らかに駄目な回があっても致命傷にはならない。
 そして、このテレビドラマの反復性は、ときに映画ではできないような実験的な演出も可能にした。例えば、アニメ監督の押井守は、特撮ファンのあいだでカルト的な人気を誇る実相寺昭雄の演出について、六〇年代末の『ウルトラセブン』や『怪奇大作戦』等の特撮テレビドラマでの破天荒ぶりに比べて、七〇年代初頭のATG映画三部作(『無常』『曼荼羅』『哥』)は「妙にきちんと撮ってるなぁ」と感じたと述べている。「シリーズの中で好き放題やるということと、映画を頭から終わりまで
自分でやらなきゃいけないというのは全然別の体験だし、当然ながら別の方法論が必要だし、別の覚悟も必要なんだよ。ATGの三部作にはそういう破綻する快感というか「ちょっと無茶がすぎない?」という感じはまったくないんだよ*11」。
 押井自身が監督として多くの怪作を忍び込ませた八〇年代のテレビアニメ『うる星やつら』と同じく、ウルトラマンシリーズも多少めちゃくちゃな回があっても、翌週にはすべてを忘れて元に戻ることができる。実相寺はこのテレビ特有の忘れっぽさを利用して六〇年代後半の『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』では斬新な映像を作り出したが、あらかじめ「前衛のお座敷」として囲い込まれたATG映画では、恐らく真価を発揮できなかった。実相寺という映像作家は、テレビこそが「ポスト前衛」の実験場となり得ることを、いち早く身をもって告知した存在なのである。
 今のテレビは基本的にマス・コミュニケーションの道具であり、マイナー性の擁護には向いていない(特に日本のテレビは受け手の理解可能性を過小に見積もり、結果的にどれも大同小異でつまらなくなっている)。それに対して、初期のウルトラマンシリーズはまだ「マス」に向けて発信するノウハウをもたず、良く言えば手作り感があり、悪く言えば隙が多かったが(イギリスの特撮人形劇『サンダーバード』の完成度の高さと比較してウルトラマンシリーズを貶す論調は当時からあった)、それゆえに実相寺の「放送事故」のような映像も生み出されたのだ。映画や美術や文学の批評と違って、特撮テレビドラマの批評には隙、の多さや不完全さが何をもたらしたかという、ひとひねりした視点が要る。
 そして、このような視点はテレビを拠点とした戦後サブカルチャーの仕事を考えるのにも不可欠だろう。『うる星やつら』の押井や『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明のようなアニメ作家は、週一回というテレビの放映リズムの反復性を逆手にとって、視聴者をぎょっとさせる異常な映像や演出を実現した。あるいは、実相寺と同世代の伊丹十三や大林宣彦はテレビ・コマーシャルの領域で、軽やかでチャーミングな映像を作り出した。テレビというマス・コミュニケーションの場に穴をあけるようにして、放送事故すれすれの先鋭な映像を忍び込ませていくーー、実相寺によるウルトラマンシリーズの演出はその先駆けとして評価することができる。

ポストモダン化の入り口

 私はここまでウルトラマンシリーズと当時のメディア環境の関係について述べてきたが、それとともに、このシリーズからは日本社会の変容も読み取れることを強調しておきたい。
 社会思想の分野においては、一九七〇年前後を境にして先進国で「リアリティの多元化」を特徴とする「ポストモダン化」が加速したと説明されることが多い。すなわち、ひとびとの価値観や正しさの基準が多元化して「小さな物語」が分立し、コミュニケーションの前提となる社会的コンセンサスが溶解する一方、オリジナリティの神話が崩れて電子的な複製物やディズニーランド的なテーマパークが大衆消費社会に満ち溢れていくーー、このような事態が「ポストモダン化」と総称される。このポストモダン化は、日本では高度経済成長の終わり(=成長という大きな物語の挫折)と連合赤軍事件に象徴される左翼運動の衰退(=革命という大きな物語の挫折)とも連動していた。ウルトラマンシリーズの放映時期はまさにこのポストモダンの到来と重なっており、時代の揺らぎがあちこちに反映されている。
 シリーズの概要は第一章で述べるが、簡単に言えば、七一年放映開始の『帰ってきたウルトラマン』までは現実の冷戦構造や公害問題、あるいは未来への夢を背景として、社会への批評性を帯びた怪獣がしばしば出現していた。対して、七二年放映開始の『ウルトラマンA』以降になると、オリジナルの怪獣から神秘性が失われ、既存の怪獣を記号的にサンプリングした合体怪獣が現れるとともに、それまでのウルトラマンシリーズの展開を踏まえた内輪的な物語も増える。作品のテーマについても、『A』以降は内なる「心の闇」のテーマがますます上昇してくる。総じて言えば、未来や科学や社会批評のテーマよりも、虚構の怪獣の記号的な処理や民話的なホラーのほうが好まれるようになってくるのだ。
 したがって、ウルトラマンシリーズを時代順に見ていくだけでも「映画からテレビへ」というメディア環境の変化に加えて「近代からポストモダンへ」「現実から虚構へ」「社会から心理へ」というリアリティの座標の変化が、綺麗に浮かび上がってくるだろう。このシリーズがサブカルチャー史の測量点になり得るのは、一九六〇年代後半から七〇年代という文化的な端境期の状況をよく映し出しているからである。
 以上の論点を踏まえつつ、本書では次の三本の柱をテーマとして設定したい。

 〈1〉昭和のウルトラマンシリーズはおよそ十五年の放映期間のあいだに、どのような変容を遂げたのか。戦後サブカルチャー史のなかで見たとき、それ以前のヒーローもののドラマと比べてどういう特色をもつのか(第一章、第二章)。
 〈2〉生粋の技術者であった円谷英二は、戦前・戦中を通じていかに特撮と映画を結びつけたか。さらに、戦後の『ゴジラ』以降の特撮において出てきた「怪獣」のもつ意味とは何か(第三章、第四章)。
 〈3〉特撮やアニメにとって戦争とは何か。そして、ウルトラマンシリーズの受容環境も含めて、戦後サブカルチャー全般を支えてきた「少年」のモチーフは、いかに形成されてきたのか(第五章、第六章)。
 このように、本書の立場は、戦後のウルトラマンシリーズを孤立した作品ではなく、あくまで戦前・戦中から続く文化史的な系譜のなかでーーさらには隣接ジャンルであるアニメとの関わりのなかで分析しようとするものである。それはいわばウルトラマンという「星」を、昭和の文化史という「星雲」とともに観測することを意味する。その作業によって、私は日本の特撮ひいてはサブカルチャーが、戦後の時空を生きるなかで何を得て、何を失ったかを検証していきたいと思う。
 なお、一九九六年以降は『ウルトラマンティガ』に始まるいわゆる「平成ウルトラマン」のシリーズも円谷プロによって作られたが、本書ではほとんど取り上げなかった。私はどちらかと言えば、ときに狭義のウルトラマンシリーズとは離れた分野(特にアニメや出版)に、このシリーズの遺伝子を認めている。なぜなら、作品の「遺産」というのはえてして正統的な嫡子ではなく、異端的な庶子によって偶発的に相続され生き延びていくものだからである。*12

(続きは本書でお楽しみください)

脚注
*10 例えば、庵野秀明は「駄目なものは駄目なんだと実情をもっと認めることが必要だと思うんです」「本来アニメや特撮って駄目なんですよ」と述べながら「アニメや特撮は究極のデカダンス」で戦後日本の平和と豊かさを反映した「余剰の産業」だと冷静に分析している。「「怪獣」という存在の耐用年数」『文藝別冊 総特集円谷英二』(河出書房新社、二〇〇一年)一七三頁。
*11 押井守『監督稼業めった斬り──勝つために戦え!』(徳間文庫、二〇一五年)三〇七頁。
*12 なお、円谷の特撮の海外展開にも面白い事例があるが(例えば、関羽がウルトラマンのように巨大化して香港の街で闘う一九七〇年代の映画『関公大戦外星人』は、日本式特撮と中国式京劇のハイブリッドである)、本書では論じなかった。しかし、このような「庶子の遺産相続」も本当は無視できない。


目次

序章 「巨匠」の後のテレビドラマ
第一章 ウルトラマンシリーズを概観する
第二章 ヒーローと寓話の戦後文化簡史――宣弘社から円谷へ
第三章 文化史における円谷英二
第四章 風景と怪獣
第五章 サブカルチャーにとって戦争とは何か
第六章 オタク・少年・教育
終章 エフェクトの時代の迷宮

上原正三氏・桜井浩子氏推薦!

「怪獣とは?問われれば、「僕自身」と答える。ウルトラマンとは?問われれば「僕自身」と答えるだろう。僕の心の中には良心と破壊願望の邪心が同居している。ウルトラマンは心の葛藤の記録。だから「ゲテモノ」と揶揄されても書き続けることができた。ツインテールの目線で。」――上原正三氏(脚本家)

「江戸川由利子を演じていた十代の頃、背伸びをして難解な本を読んだ。これはそんな私たちの青春時代から現代までを見つめる探求の書だ。整然と、そしてディープに広がる世界に引き込まれた。あの頃のように。」――桜井浩子氏(女優・コーディネーター)

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