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2020/06/24 21:05

研究者・メディアアーティストの落合陽一さんの最新刊『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』(PLANETS)より、まえがきを無料公開します! テクノロジーによっていかに〈近代〉の枠組みが再構築されうるのか。落合さんの提唱する〈デジタルネイチャー〉を繙(ひもと)いていきます。


まえがき

 2017年の秋口の深夜、スマートフォンが産声をあげて10年後の世界だ。
ハイビームを焚いて走行する車内から、窓の外を流れる景色を眺めている。夜霧の闇は深いが、水蒸気に照らされて散乱する光は、真昼のような明るさだ。エジソンが電灯を発明してから150年後の地表は、エネルギー変換効率の高い新光源【注1】の普及によって、昼夜を問わず可視光線に満ちた世界になった。
 フロントガラス越しの風景がどこか二次元的に感じられるのは、映像誕生以後の人類である僕が、窓越しの風景を画面越しのように認識しているためだ。光の届く距離が限られる霧の中、僕という個人の存在は可視光的に覆い隠されている。
 深い暗闇の中、曲がりくねった山道で、運転手は注意深くステアリングを切る。可視光が闇の中に切り拓いた領域が、上書きされては消えていく。カーブを曲がると、遠方の対向車のライトが届くのがわかる。あいかわらず視界は閉ざされているが、おそらく長い直線の中にいるのだろう。差し込んだ光の周囲に広がるのは、エッジの柔らかい散乱光だ。
 静止しているようにも感じられるが、速度計によれば、確かに時速40㎞。淡い乳液のようなミー散乱【注2】の中を、僕は走っている。空間の至るところで発生する光の散乱は、ハイビームとその影による直線を空気中の水粒子に描き出し、色を持たないフォトン【注3】の影を黒色のビームのように錯覚させる。山中の冷ややかな空気の中、僕は可視光の海の中にいる。均一に濁った、それでいて波を感じないほどに穏やかな、さらさらとした海だ。
 運転手の身体は、ステアリングホイールを通じて機械に接続されている。ホイールを手足のように操り、ブレーキを踏み込んで減速、曲線的なコースへと車体を滑り込ませる。濃霧のもたらす散乱は視認距離をどこまでも短くするため、この曲がりくねった道路の先に何があるのか視覚からは確認できない。目的地までの道のりは、カーナビゲーションシステムとガイド音声だけが頼りだ。僕は今、GPS衛星から発信されたシグナルと、カーナビのデータベースを通して、乳白色の海の中にいる自分を見ている。可視光の散乱する海の中でも電波は常に届いている。
 霧に覆われた世界の中で考える。僕は今、感覚器の環境要因による機能不全を、電信系・外部記憶装置・モニターといったテクノロジーで補い、それを身体の一部のように感じながら進んでいる。その世界に手触りはなく、音と光の仮想的な情報から実在を感じ取っているに過ぎないが、カーナビに表示された電子の地図は、僕にとっての第二の山道であり、信じるに足る〈計数的な自然【注4】〉なのだ。その反面、本当の自然であるはずのフロントガラス越しの風景は、どこかリアリティに欠けている。それは僕が信じている〈計数的な自然〉を追認する二次情報、体感としての〈映像的なもの〉に過ぎない。
 今、僕の信頼は、静止軌道上の衛星から送られてくる情報とデータベースに託されている。この〈計数的な自然〉への信頼は無意識的だが、深く、そして疑いようがない。それは、肉眼では歩くことさえおぼつかない乳白色の霧の中、よどみなく車が走行している事実によって裏打ちされている。主観的な映像が意味をなさず、己の存在を客観的にしか把握できない暗黒と白色光の中に、僕の意識は浮遊している。
 山道の先にあるのは小さな宿場町だ。約2年ぶりとなる硬質なテーマの本の執筆が佳境に入ろうとしているが、そんなとき僕は、日常からかけ離れた場所に一定期間、篭もることにしている。3年前は熱海の人里離れた山奥の旅館で『魔法の世紀【参考1】』を脱稿した。日々の喧騒から切断された時間と空間に身を置いたときに感じられる、自分を遠くから眺めるような三人称的な感覚と主観的認識のギャップ。その狭間に思考を漂わせるのが、僕は好きだ。
 すなわち〈計数的な自然〉─デジタルネイチャーへと没入した思考を、絶え間なくキーボードに打ち込む。モニターと網膜は結像関係にあり、指は思考を先取りして打鍵し、予測変換は知覚より先に次候補をサジェストする。機械と統合された身体は情報を生成しながら、同時に衛星軌道上から届く情報を頼りに、深い霧の中を突き進む。デジタルの自然がもたらす生態系の中で、僕の意識は一人称と三人称の間を往還し、身体は思考機械と移動機械を架橋している。
 〈自然〉と〈デジタル〉の融合。寂びたデジタルが行き着く〈新たな自然〉。それは東洋文明が育んだ感性を端緒としたイノベーションになるはずだ。唯一神を持たず、近代的な〈主体〉や〈個人〉の概念【注5】に囚われない古典から接続された東洋的エコシステム【注6】は、思考や情報のトランスフォームをさまざまな形で可能にする。その一例が、今まさに僕が置かれている状況だ。可視光が届かない深い霧と暗闇の淵にあっても、現在位置は常にスマートフォンアプリケーションによりクラウドに捕捉され、AirPodsは鼓膜と外界の間で僕の肉声をトレースしながら、「Hey Siri」のコールを待っている。人間の周囲にある「外在的な自然」と、筋肉や感覚器などの「内在的な自然」は、デジタル世界を間に挟むことによって、調和し完結している。
 視界の片隅で明滅しているスマートフォンとスマートウォッチは、いずれスマートグラスに置き換えられるだろう。そこでは視界のすべてを覆い尽くすフォトンの海を通じて、世界を認識することになる。
 遠からぬ未来、人類はフォトンと空気振動が媒介するネットワークへと接続される。それはイルカやクジラといった海洋哺乳類が、超音波による音響通信とエコーロケーション【注7】を、〈海〉の媒介によって可能にしているのと、よく似ている。そのとき人類【注8】は、視聴覚が完全に被覆された〈デジタルの自然〉へと至るのだ。
 その先にあるのは、五感の被覆により、モノの実在感すらもデジタルで再現される世界、つまり物質性・空間性のコンピューテーショナルな相転移【注9】だ。データが〈モノの実在性〉の軛を超越し、情報体でも物体でもない〈幽体【注10】〉として、自由に変換される時代が訪れるだろう。

So gibt uns die Natur schon in ihrem materiellen Reich ein Vorspiel des Unbegrenzten und hebt hier schon zum Teil die Fesseln auf, deren sie sich im Reich der Form ganz und gar entledigt.【参考2

 18世紀の思想家であり詩人のフリードリヒ・フォン・シラー【注11】はその詩の中で、植物は余剰エネルギーを大地に還元するが、動物は余剰エネルギーを運動に転換することで、自然界の物質的束縛を断ち切り、より自由になるべく姿を変えていくと詠った。
 彼のいう「植物の余剰」と「動物の余剰」は、現代においては「機械の余剰」、つまり人工ニューラルネットワークによる神経系の構造の外在化【注12】と、そこから生み出されるリソースに置き換えられる。「計算機的余剰」から出現する〈新しい自然〉。シラーが植物と動物の比較によって〈自由〉を言祝いだように、そこでは生物と機械の対比によって見出される、新たな思想のあり方が問われている。フランス革命に端を発し、啓蒙主義者たちによって定義され、前世紀を通じて世界中に拡散された〈自由【注13】〉という概念。しかし、今我々が当たり前のものとして享受している〈自由〉は、本当にそう呼ぶに値するのか。それは、個人あるいは共同体の主観によって定義された不確かな根拠に過ぎないのではないか。古代以来の自由意志と決定論を巡る問題の解決をみないまま、自身の感覚器と記憶による判断と、センサーとデータベースに由来する計算機的判断の境界に立たされている今の人類に、それが〈意識的〉あるいは〈無意識的〉だとしてもそもそも〈自由〉などありえるのかという問いを歴史は繰り返していた。
 現在の社会で自明とされている〈人間【注14】〉〈社会【注15】〉〈幸福【注16】〉〈国家【注17】〉といった概念は、18世紀に西洋で確立された〈個人〉と、そこから敷衍された社会契約論や自然権に由来している。それから約200年、計算機時代の市場経済や、人類種の機能拡張を前提とした新しい思想は、未だに登場していない。

 近代に発明され、今もなお我々を束縛し続けている理念は、それを根底で規定している構造、つまり〈言語〉の制約【注18】を突破しない限り、アップデートは不可能だろう。言葉が本来的に備えている「情報の圧縮」や「フレーム化」といった機能を代替する、新しい理解のモデルが求められているのだ。End to End(エンド・トゥー・エンド【注19】)。末端から末端、現象から現象へ。言語を経由しない直接的変換によって、意味論の外部で現象を定義し、それを外在化する方法に辿り着かなければ、西洋形而上学の枠組みの中で、本質から疎外された言葉遊びを永遠に繰り返すことになるだろう。

(後編に続く)

【脚注】

注1 発光ダイオード(LED)や有機発光ダイオード(有機EL)などの照明技術のこと。1990年代の青色LEDの発明以降、照明機器として急速に広まった。主に半導体製造プロセスに則り製造される。
注2 微細な粒子によって発生する光の散乱現象のこと。雲や霧などの波長によらず白色散乱を起こす性質のこと。
注3 光子。光を構成する素粒子。粒子と波動の特徴を併せ持つ性質がある。近年コンピュータの業界でも光コンピュータの研究事例が増えている。
注4 高度に発達したコンピュータは、社会に偏在する段階(ユビキタス)を経て、自然と融合した新しい生態系として地球上を覆い尽くすことになるだろう。本書ではこのヴィジョンを〈計数的な自然〉または〈計算機的な自然〉あるいは〈デジタルネイチャー〉と呼ぶ。
注5 今日使われている「主体」や「個人」といった概念の成立は18世紀に遡る。1789年のフランス革命を端緒とする近代の黎明期、ルソーら啓蒙主義者たちが創出し定義したこれらの概念は、今日に至るまで自由主義や民主主義の根幹として機能している。
注6 西欧で発生した資本主義は産業革命を契機とする大量生産とそれに付随する消費社会を生み出したが、東洋文明では資源が循環するエコロジカルな経済圏を形成した。日本の江戸時代の社会構造や勤勉革命はその典型例。
注7 インターネットとワイヤレスネットワークによるヒト同士の通信は、海中でハクジラが行う音響信号を使ったコミュニケーションと極めてよく似たネットワークを構成しうる。
注8 本書では人類・人間・ヒト・人という言葉が頻出するが、「人類」は進化論的存在、「人間」は社会的存在、「ヒト」は生物学的存在、「人」は文化的存在、という意味で使い分けている。
注9 現在のコンピュータは、人間の視覚や聴覚といった部分的な感覚を低解像度で仮構する機能に留まっているが、将来的には触覚を含めた全感覚を代替し、物質それ自体の直接出力を行うことができるようになる。そのとき、人間は物質性や空間性の軛から解き放たれることになるだろう。
注10 肉体や記憶や人格の完全な仮想化によって、人間存在は時間や空間の障壁を超えて、あらゆる時空間に存在するようになる。この物質性の軛を超えた情報存在としての知能の形を、本書では〈幽体〉と呼ぶ。
注11 18世紀末に活躍した詩人、劇作家、思想家。ゲーテと並ぶドイツ古典主義を代表する作家であり、後の自由主義やロマン派の成立に大きな影響を与えた。ベートーヴェン交響曲第9番「歓喜の歌」の作詞者としても知られる。
注12 人工ニューラルネットワークとして知られる生物の神経細胞の構造を模倣した数理的モデル。1943年にウォーレン・マカロックとウォルター・ピッツが発表した形式ニューロンから研究が始まり、2000年代に入ると多層ニューラルネットワークによる深層学習の登場で、時空間フィルタのような統計処理は人工ニューラルネットワーク上に外在化された。
注13 近代的〈自由〉の概念はフランス革命の「自由、平等、友愛」のスローガンを端緒とする。啓蒙主義時代にJ・S・ミルやジョン・ロックによって確立された自由主義は、今日では政治的・経済的に完全な自由を標榜するリバタニアリズムにまで拡張されているが、その定義や適用範囲については現在も議論が絶えない。
注14 〈人間〉はキリスト教世界においては長く「神の似姿」とされてきたが、17世紀以降、動物との対比から人間存在を科学的に定義する動きが広まり、19世紀のダーウィニズムへとつながる。一方、啓蒙主義時代には社会的人間は教育が生み出すという思想(ルソー『エミール』など)が確立され、近代以降の人間観に強い影響を及ぼしている。
注15 〈社会〉の成立条件は17世紀以降の近代思想の最も重要な思想的課題の一つであった。ロックやホッブズ、ルソーは文明以前の架空の自然状態を想定し社会が誕生する必然を説いたが、その影響は(例えば人権思想の根底に社会契約の概念があるように)今日の諸制度および人間の定義に深い影響を及ぼしている。
注16 近代の〈幸福〉観の画期は、19世紀の功利主義者ジェレミ・ベンサムの「最大多数の最大幸福」だろう。社会全体の〈幸福〉を、定量的に観測し増大させる思想は、その後、〈幸福〉の定義の困難に突き当たり、ロールズの「無知のヴェール」的な、不幸を最小化する社会思想へと転換し、近年でも議論が盛んに行われている。
注17 近代的な〈国家〉の起源は1648年のヴェストファーレン条約まで遡る。カトリックとプロテスタントの三十年戦争を調停したこの条約は、ローマ教皇が司る宗教的支配の終焉を告げ、〈国家〉の枠組みによる新たな国際秩序を西欧に成立させた。
注18 〈言語〉が人間と社会を根底で規定するという思想は、20世紀初頭にヴィトゲンシュタインによって見出され(「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」)、ハイデガーの「現存在」(『存在と時間』)による二項対立の突破へとつながる。以降、〈言語〉による認識論的な構造の読解とその境界を定義する試みは、現在の言語哲学や分析哲学にまで受け継がれている。
注19 機械学習では、入力―処理―出力のプロセスにおいて中間の処理の過程がブラックボックス化するため、人間が理解しうるのは入力と出力の両端のみとなる。この始端と末端が中間領域を飛躍して接続される関係性を本書ではEnd to Endと呼ぶ。
参考1 落合陽一『魔法の世紀』(PLANETS、2015年)
参考2 http://gutenberg.spiegel.de/buch/ueber-die-asthetische-erziehung-des-menschen-in-einer-reihe-von-briefen-3355/5(閲覧日2018年5月6日)


【著者紹介】

落合陽一(おちあい・よういち)
1987生。2015年東京大学学際情報学府博士課程修了(学際情報学府初の短縮終了)、博士(学際情報学)。2015年より筑波大学図書館情報メディア系助教デジタルネイチャー研究室主宰。2015年Pixie Dust Technologies.incを起業しCEOとして勤務。2017年より筑波大学学長補佐、大阪芸術大学客員教授、デジタルハリウッド大学客員教授を兼務。2017年12月「デジタルネイチャー推進戦略研究基盤」を筑波大学内に設立し、筑波大学助教を退職、及び本基盤の代表/准教授として筑波大学に再就任し、現職。JST CREST xDiversity代表。専門はCG、HCI、VR、視・聴・触覚提示法、デジタルファブリケーション、自動運転や身体制御・多様化身体。研究論文は分野の最難関国際会議であるACM SIGGRAPHやACM UIST、CHIなどに採択されている。