2020/06/04 12:43
世代や国境を超えて、私たちの共通体験となった『ドラえもん』。戦後日本の夢が詰まった同作を、いまどのように読み解くことができるのでしょうか。「のび太系男子」が抱える苦悩とは? ひみつ道具に託されたメッセージとは?
まえがき
最初にお断りしておくと、本書は正攻法の作品評論ではない。『ドラえもん』を材料に社会論や世代論への接続をうっすら試みる、やや乱暴な思考実験の軌跡である。
1969年に連載が開始され、作者の藤子・F・不二雄が逝去する直前の1996年まで続いた『ドラえもん』は、日本を代表する国民的マンガである。これに異を唱える者はいないだろう。
1979年からテレビ朝日系で放映中のTVアニメシリーズ(後述するが、これは2度目のテレビアニメ化である)は、2005年の声優リニューアルを挟んで2017年現在も放映中。いまだに子供たちの人気を博している。毎年春に公開される劇場版アニメは安定のドル箱作品であり、本書が刊行される17年3月には第37作目の『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』が公開となる。
もはや『ドラえもん』は多くの日本人にとって、完全に共通原体験としての役割を果たしている。親子3世代でファンになっているケースも珍しくない。
現在の日本において、そんな『ドラえもん』という作品を形容する枕言葉には、いずれも〝文科省推薦〟的なニュアンスが含まれがちだ。「親が子供に安心して見せられる」「子供たちの創造力を育む」「夢や希望にあふれている」「物語が平和の大切さを訴えている」「友情の大切さが描かれている」「日本が世界に誇るべき、クールジャパンコンテンツの代表作にふさわしい」等々。
しかし、このような「お行儀のいい、品行方正な、おりこうさんイメージ」は、『ドラえもん』という作品を十全に説明していると言えるだろうか。
『ドラえもん』は、「教育的、倫理的、政治的に正しい」物語だけを紡いでいたか?
『ドラえもん』は、30〜40代日本人男性の価値観を、必ずしも好ましくない形で規定してしまったのではないか?
『ドラえもん』は、普遍性の高い国民的マンガではなく、「時代と寝た」作品ではなかったか?
『ドラえもん』は、藤子・F・不二雄の偏った自己肯定や個人的願望の産物ではなかったか?
『ドラえもん』に登場する未来や道具には、見た目以上に皮肉や批評性が内包されてはいないか?
すでに『ドラえもん』という汎国民コンテンツの作品性は、多くの先人たちによって研究・分析し尽くされている。
だが17年の今、『ドラえもん』を解体する意義は大いにあると感じる。その鍵は、現在30〜40代の団塊ジュニアからポスト団塊ジュニアの(日本人)男性だ。彼らは1980年代の『ドラえもん』絶頂期に原作を読み、アニメを観て育った。社会的な発言力、経済的な影響力、人口ボリュームといったさまざまな意味で、現在の日本国家の中核を担っている彼らが、幼少期に『ドラえもん』から受け取ったもの、潜在意識に刷り込まれたものとは何だったのか。
藤子・F・不二雄(本名:藤本弘)という天才マンガ家が45年というキャリアの半分以上、足掛け27年もの長期にわたって描き続けた『ドラえもん』は、20世紀後半のニッポンを市民目線で活写し、21世紀を生きる大人たち(=元読者・元視聴者)の価値観に、ある志向性を与えた。それは、西洋コンプレックスをベースにした苦悩スタイルでおなじみの夏目漱石の作品群が、近代日本人の精神性のスタンダードをある意味で規定してしまったインパクトに、勝るとも劣らない。
現代の日本でメインプレーヤーとして奮闘する30〜40代男性の「心の参照先」を―当該世代である筆者が、ある種の〝我が事〟として―『ドラえもん』の作中に見出そうとするのが、本書の裏テーマである。
本書が、今上天皇の生前退位によって間もなく幕を閉じる「平成」の黄昏どきに出版されることも、なかなかに意義深い。
昭和が終わり、平成が始まったのは1989年1月8日。本稿執筆時点で、平成は約30年でピリオドを打たれることが確定している。30〜40代男性にとって平成の30年間は、思春期・就職・結婚といったハイライトが詰まった「人生の前半、ほぼすべて」。となれば、彼らの前半生を凝視すればするほど、文字どおりその舞台として機能した「平成日本」の様相が、ごく自然に視界の端に飛び込んでくるに違いない。
ちなみに、平成スタートの約1ヵ月後、89年2月9日には、Fが師と仰ぐ〝マンガの神様〟こと手塚治虫が逝去した。その瞬間、国民的マンガ家の重要ポジションが、手塚からFに自然移行した―手塚が退位してFが即位した―という見立てもまた、可能ではないだろうか。Fは平成日本の誕生とほぼ同時に、「日本を代表する国民的マンガ家」を襲名したのだ。奇しくも、同年3月の大長編ドラえもんのタイトルには「日本誕生」というワードが含まれている。
本書は全14章と2つの補章で構成されている。
第1章では、『ドラえもん』の作風が世代によって異なる印象としてインプットされている点を、掲載時期別・掲載雑誌別に整理する。
第2章から第4章では、原作『ドラえもん』の最も熱狂的な読者だった現在30〜40代の男性が、大人になった今もいかにのび太というキャラクターの(悪)影響を受けているかについて述べる。本書では彼らのことを「のび太系男子」と呼ぶ。
第5章と第6章では、のび太の将来の結婚相手であるしずかと、運命変更前の結婚相手であるジャイ子とを比較しながら、1990年代から2010年代にかけての女子のサバイブ史を概括する。
第7章では、ビジネスモデル提案から疑似ドラッグまで、クリティカルな道具の効能を「『世界』の改変」というテーマで括り、考察する。続く補章1では一部IT系の道具が現在の技術でも制作可能であることを検証した。
第8章と第9章では、毎年の映画原作にもなっていた「大長編ドラえもん」に着目し、共通する物語法則や近年の駄作問題について言及する。続く補章2では、傑作と名高い初期大長編7作品を「恐怖」という観点から掘り下げた。
第10章では、作中に時折みられる社会批評的側面や、1980年代半ば以降に頻出しはじめる「エコ」テーマについて述べる。
第11章と第12章では、時流を反映したモチーフをピックアップ。狂乱地価時代の土地ネタや蓄財ネタ、冷戦下の軍事ネタなどについて考察する。
第13章は、『ドラえもん』のルーツと呼ぶべき藤子・F・不二雄の作品群を追うことで、改めて『ドラえもん』の立ち位置を規定する。
最終章では、作中に現れる「世界の創造」「運命の改変」というキーワードを手がかりに、藤子・F・不二雄の人生観、および「のび太系男子」がそこから受け取ったもの、受け取るべきものについて考えを巡らせた。
なお、筆者は1974年生まれの団塊ジュニア世代である。幼稚園児の頃から原作コミックスを親に買い与えられて読み、小学生だった1980年代にはまさしく『ドラえもん』漬けだった。
中学生、高校生になっても『ドラえもん』は卒業しなかった。新刊はもちろん購入し、毎年春の映画も毎年欠かさず観に行っていた。大学では「ドラえもん同好会」なる非公認団体を立ち上げ、ワープロとコンビニコピーを駆使した会報を制作。わずか10数名の会員に手作業で郵送していた。しかし当時のFは既に晩年期。その筆は明らかに衰えていた。
逝去の報を聞いたのは1996年9月。下宿近くの中華料理屋のTVニュースで愕然としたのを今でもよく覚えている。
それから20年以上、『ドラえもん』は常に自分の近くにあり続けている。謎本や研究本の類い、パートワーク(分冊百科)、ムック、未収録作の新規編集単行本などは目につく限り買い揃えた。オリジナル脚本の駄作映画版に怒りを震わせ、声優リニューアル(2005年)にさまざまな想いを抱き、妻夫木聡らが出演するトヨタの実写版CMに心をざわつかせた。
ちなみに筆者は新卒で映画配給会社に入社し、その後ややあって映画関連書籍を主に刊行する出版社で編集者になるという映画に縁のある仕事に就いてきたが、生まれてはじめて映画館で観た映画は、1981年公開の大長編ドラえもん2作目『のび太の宇宙開拓史』である。
また筆者は言葉を扱う職業である「編集者/ライター」を肩書としているが、幼少の頃に「日常会話」のお手本にしていたのは『ドラえもん』原作コミックの吹き出しであった。ドラえもんやのび太のダイアローグを完コピすることで、物の言い方や相槌のボキャブラリーを習得したのだ。
自分の人生を決定づけた『ドラえもん』という作品、そして藤子・F・不二雄先生に精一杯の感謝と敬意を込め、襟を正して「ドラがたり」を始めたい。
ドラえもんが来ないまま、大人になったキミたちへ